今日は、最近ここしばらくの間、自分自身の中で自問自答してきたことについてお伝えしたいと思います。

まず、これまで自分は自問自答しながら何について迷っていたのか・・・と問うてみます。

すると、最初はこれから書く内容そのものの信憑性について、そして、もう一つはその内容をHPを通して発信してよいのかどうか、の二つであることに気がつきました.。

内容については心の中で・・・本当にこういうことがあるのかもしれない・・・と思うと同時に、・・・いや、こんな大それたことが私たちの過去に起こったはずがない・・・と思ったり、と心が揺れておりました。後者についてはよく見てみますと、発信する事が引き起こすかもしれない結果を多少なりとも考えているにすぎなく、結果そのものについてはポジティブであり、怖れはあまり抱いていないことがわかりました。。

おおそれたこと・・・それはここ数年の間、ヒプノセラピーを手がけてきた中で顕著に表れてきたことです。

深層意識に届き、その中にある情報にアクセスし、それを見ることを何回か繰り返すと、回路が徐々に確立してくるのでしょうか、見るのが上手になり、しっかりと情報を手に入れる事ができるようになります。

個人個人の深層意識の中にあるものを再発見していくことで、本人が生きていくうえでの感情的、心理的、身体的な問題が解消したり、人間関係が良い方向に向かったりすること、霊的な進化、成長がもたらされるのはこれまでにもはっきり分っておりました。が、数的にかなり多くのケースを手掛けたことや、一人一人のクライアントがしっかりと情報にアクセスするのが上手になってきたことで、その他にもいろいろわかってきたことがあります。特筆すべきは、個々人としてよりも俯瞰的、総括的にグループとして捉えてみたときに見えてくることでした。

その中で最も顕著で注目されるものは、多くの人達がイエス・キリストと同じ時代に生きていた、という過去を持っているということです。
私もこのことが少しずつ出始めたとき、本当に驚きました。それはイスラエルランチというところのページでも書きましたが、その時が初めてのことで、それだけで圧倒されたような気持ちを持ったものでした。今、考えますと、それはほんの前奏曲、前触れにすぎなかったのです。

あれから何人もの人達が過去世をいろいろな形で思い出しましたが、その中でイエス・キリスト、マリア、その他のいわゆる私達が聖書物語や聖書に出てくる人物として見聞きしたことのある人達が、いろいろな形で出てくるのです。 始めのうちは驚異というか、信じられない思いであり、あまりにも予想外のことでしたので、多くのクライアント自身が疑ったように、私も疑い、迷い、もしかするとすべてイマジネーション、想像の産物ではないかということも頭に浮かんでまいりました。

しかし、疑うのは良しとしても、否定したり、無視するにはあまりにも多くの人達に共通するのです。また、別の面で共通しているのは、彼らは、決してキリスト教信者でもなければ、その他の宗教を信仰している信心深い人達でもなく、ごく一般的な良識を持った市民であり、ごくごく普通に毎日を一生懸命に生きておられる人達であるということです。その人たちの生き方や考え方に接していると、過去世で思い出す事を一笑に付したり、想像の産物だとして安易に片付けてしまうことはできかねるのです。

その一方で、そうすることは今まで私の行ってきたヒプノセラピーの信憑性をも疑問視、否定することにも繋がります。
積み重ねてきた症例を通して、自分の中ではその有効性は勿論、価値、意味、信憑性などを信じておりますから、 予想外のことだからという理由で、特定の現象のみを否定することは、これまで行ってきたこと全部を否定することにもなり得ます。
従って検証できないまでも、たとえイエス・キリストが過去世に現れたとしても、しっかりと中立な立場で認識し、これまで通り信憑性のあるものととらえていくのが妥当な姿勢だろうという結論に至りました。

これまでのところ、過去イエス・キリストと一緒に生を分かち合った人達の過去世を見てみますと、多様な情報が多く出てまいります。それらを自分自身の過去世としてみた人達と同様、私自身も、あまり宗教一般には詳しくありませんし、いろいろな機会に接するチャンスはあったものの、キリスト教と一般に称されるものを信じるに至った事もありませんので、聖書を始め、イエス・キリストに関して持ち合わせている情報は、ごく常識の域を越えるものではないと思います。

過去世に現れるイエス・キリストというのは、あまねく世界中に広がっている宗教としてのキリスト教の中で理解されているイエス・キリストとは必ずしも同義ではありません。宗教として確立する以前にあったイエス・キリストです。

たまたま爽でヒプノセラピーを受けた人々が2000年近く前に接していたらしい一個の人間としてのイエスであり、一緒に行動を共にしていたリ、町の人として知っていたイエスであるということです。
これは今、私達が毎日を生きていて、将来地球がどうなるかなどということを考える事はあっても、自分が行った事が2000年後どうなるかと考えたりしないように、イエスの周辺に生きた彼らも、その日,その日、昨日、明日、そして近い将来を見ながら暮らしていたにすぎないでしょう。 決して500年、あるいは1000年、2000年先に自分たちが関わったことが世界中に知れ渡り、影響を与えるであろうことは、おそらく想像もしなかったことでしょうし、勿論それを目的として行ったわけでもないでしょう。普通に懸命に生きた人間たちが、信じることを、真摯にそして誠実に毎日の中で行っていたことの結果が、それぞれの文化圏の中で、2000年の年月を経ながらいろいろな形で伝わり、人々によって変容され、受け継がれているのがすぎないと思われます。

どうしてこんなにたくさんの方が、本当にショッキングだともいえるような過去世を、ここで思い出されるのでしょうか。そして、それ以上にイエス・キリストの高次元の存在からいろいろなメッセージがもたらされるのでしょうか。 それを今私は考えています。何故なのか、何故そういう過去を見させていただいているのか、ということです。

意味があるとしたらそれは何なのか、それが将来に繋がることであると信じますけれども、ではどのように繋がるのか、ということです。

過去を云々して、それを拘泥するのは本来の目的ではなく、それを今の人生に生かすことが大切だと思います。それならば複数の人達からもたらされる情報をどういうことに役立たせて行ったら良いのか、ということです。  

このヒーリングルームを何という名前にしたらいいか、という際にインスピレーションで得た「爽」という名前、そしてその深い意味があるというのを他のページでもご紹介致しましたが、その中にヒントがあるようにも思います。爽の意味が分かったときは・・・不思議だけれど、そんなものかな・・・程度に思っていたものが、実際に形を現してきたような、情報がジグソーパズルのように一つ一つ合わせて行く事で、何か形が出来て行く過程にある、というような感じも致します。

1世紀イエス・キリストの時代に生きた人達の中には、キリストと一緒に磔にされた者たち、あるいはその周辺で痛められ、傷ついた人達のグループと、体制側にあってそれらの人達を弾劾し、苦しめた人達の側にいる第2のグループ、それに3つ目のグループとして、どちらにも属さず、ただ見ていた多くの同時代を生きた人達の3つのグループがあったはずです。
思うに、そのおのおののグループに属する人達が、同じように深く傷ついたのではないかということです。その人達の魂は癒しを必要としていて、今、この時代に共に転生し、あるいはその必要性をもって爽に集まってきているのかもしれません。同じに考えられるもう一つの目的はその時代に学び残したことがあって、それらを再度学びなおすことなのかもしれません。そして、その時に一緒にやろうとして、できなかったこともあるかもしれません。

あの時代にはお互いが否定的に行動し、それが今、伝えられているところのものだとすると、もっと違った形があったかもしれない、とも思います。ここ2000年の間に私たちは何かを学んできたはずです。それを一人一人が手に携えて、今、ここに出会っている・・・とも考えられます。