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神経症についての第2回です。
神経症は色々と複合的、総合的な原因から起因すること、そして、まず、一番多くある実例の一つを先に述べました。
今日は、また別の例を挙げて、ご説明しましょう。
現代は、この社会がとてもスピーディに流れており、人々が何かに追い立てられているかのように常に、「今」を離れて
先を、先を見ています。
このことから、人々の波動、人々の気持ちや感情がしっかりと地に足をつけず、少し足の前の空間に置かれています。
このことは、すべての事柄、すべての生活の中に影を落としています。
家庭に於いてもそうです。
例えば、お母さんがまず、将来のことを常に念頭において毎日を過ごしています。
うちの子は、将来どういう仕事に就くだろう・・・このままではたいした者にはならないだろうから・・・今・・・私が何とか
しなければならない・・・とか、私の夫の地位は将来、どこまで上がるだろう・・・毎日毎日あくせく働いているのだから・・・
私達, 家族が犠牲を強いられているのだから・・・ある程度まで行ってもらわないと困る・・・等々です。
今、現在ある状況・・・たとえば、子供の心に何が起こっているのか、今、その子供はお母さんから何がほしいのか、
どういう言葉を欲しているのか・・・にはあまり心のエネルギーが注がれておりません。
とにかく、やることをやり、片付けること、次のことにとりかかること、そして、それも早めに切り上げて、また、次のことを
終わらせること・・・というように、次から次へとやることに思いを移して、心は空ろのまま、子供たちと接しておられるご両親が
なんと多いことでしょう。
「オイ、早くやれ」、「ホラ、急がないと遅れますよ・・・・」、「早く、宿題をやってしまわないと・・・」、「ホラ・・・もう時間がないよ」等々の、
前へ前へと急き立てるような言葉がどんなに多く発せられているでしょう。
子供たちはこういう言葉を、どんな気持ちで受け取っているか・・・親たちは、自分たちのやっていることが、子供たちのためだと
信じていますから、彼らが、それによって、ある種、「毒されつつ」あるのには、全く気づいておられません。
そんなこと考えもしません。
子供たちのやわらかい感性が・・・今のこの時間を楽しみ、見つめ、自分のやっていることが自分にどういうものをもたらすか・・・
気持ちのどういう変化をもたらすか、身体にはどういう動きが伴っているのか・・・そして、それらが回りの人達、仲間、友人達と
どういう関わり・・・つまり、エネルギーの交流や交換、関係性や変化を齎すのかを確かめたり、実感したりする余裕が全く与えられて
おりません。
人が適正に発育していくには、自分の変化しつつある「道具」である身体と、自分が元来ある「魂」との間にある、色々なエネルギー・・・
これらは精神、感情、霊性と表されているものですが・・・が、如何にあるのか、如何に使うべきか、如何に発達させるべきかを学んで
いかねばなりません。
微細な心の変化と、身体との関連性・・・そして、他の人達の心や感情に接することによって、また変化する自分の心と身体を、
少しずつ、少しずつ体験することで・・・自らの発達を知り、確かめ、これからの対応を少しずつ、体得していくのが人間なのです。
その微細な時期、大切にされるべきこのスペースが無視されています。
子供が、子供自身でしっかり自分を確かめながら、自分を知り、人として基礎を作り上げていく時間が与えられておりません。
これは、もっと時間を与えなさい・・・と言っている訳ではありません。
もっと時間の質に注目する必要がある・・・という意味です。
同等の時間であっても、そこに他者の干渉や指導と呼ばれる不必要な方向付けや、背中を押し続ける絶え間ないエネルギーから
自由になったもの・・・であるべきなのです。
このことによって、子供たちはもっと自由になり、ミスすることで学んだり、誤ることでのみ得られるものを体験するのです。
自由にさせると危険な目にあうかもしれない・・・と常にお母さんたちは心配しておられます。
その心配が原因を作っているのもご存知ありません。
「いいえ、将来を予想することで、回避されるものもあるでしょう・・・」
ご尤もな言葉でしょう。
しかし、私からの言葉はこうです。
あなたのご心配は無用なのです。
お母様たちのご心配が、ご心配を必要とする現実を作るのです。
「今、次から次へと、子供たちが事件に巻き込まれている時、そういう風に子供たちを自由に・・・やりたいようにさせたら、
どういう結果が待っているか・・・・」
ご心配はもっともな状況であるのは、私も承知しております。
大人が子供達を大切にしておりません。
子供達が今、一生懸命、この地に慣れようと努力しつつある、若い、いたいけな魂であることに気がついておりません。
かつては自分も「この子」であったことにも思いを馳せません。
自分とこの子は繋がっているのにも気がついていません。
次から次へと「なにかを為す」ことにのみ気をとられ、「なにかを感じ取る」のを大切にしてこなかったことが、すべての原因である
のに気がついておりません。
何か、物理的に表出させるのみが尊ばれています。
お金を作る、お金を持ってきて、何かを手に入れる、そして家の中にものが増える、新しい家具や、新しいおもちゃ、より良いもの、
より便利な器具・・・それらがあるからより幸せになる・・・と思い違いをしておられる人が何と多いことでしょう。
幸せにするのは、物によって得られる便利さよりも、それによって出来た時間によって、より自分を感じられるからなのです。
自分の心を確かめ、魂がこの地で体験しているのを歓べるからなのです。
しかし、現実はこの確かめる「間(ま)」が与えられておりません。
特に子供たちは、必要な一歩一歩を確かめる時間とスペースなしに、次から次へと何かを為し、何かを終わらせ、次のことに
取り掛かることを要求されます。
このことで、子供たちの心が失われつつあるのに気づいてください。
楽しい・・・・この風が心地よい・・・・私の心が躍っている・・・・私の心が傷つくのは何でだろう・・・・あの友達を喜ばせるには
どうしたらいいだろう・・・・お母さんの期待に答えるにはどうしたらいいのだろう・・・・等々・・・・心の中に様々な思いが起こっては
消え、消えたはまた起こってくるのを見、感じ・・・気づき、学ぶ時間がありません。
お母さんたち、ご両親や、祖父母や先生たちは、導くのが愛・・・指導するのが仕事だと勘違いされておられます。
そうでない時期もあるのです。
花の種が地中で栄養分と水を得ている間は、静かに、暗い場所で何の干渉も必要ないように、子供たちも、時には
そういった静かな、自分だけの、心を確かめるスペースを必要としています。
この欠如によって、今の子供達の神経症やアレルギー的傾向が生じているのです。
彼らの生来あるべき発達様式が与えられないことで、心の中で混乱が生じています。
ああせい、こうせい・・・という外圧で、自分達が身動き出来なくなっています。
そして、混乱は更に混乱を生み、そして逃避が始まります。
それしか残された道が見つからないからです。
常に、確かと、自分に感じられるまで、何かを感じさせるものに取りつかざるを得なくなります。
自分の手にかかる水の流れ・・・を感じる必要を止められなくなります。
手を洗い続ける事で、自分を感じられます。
そして、自分についた汚れ・・・は、他者からの干渉の証しとなり、その汚れをいつまでも気にし始めます。
取っても、取っても取り去ることの出来ない、厄介なものとして・・・いつまでもいつまでもそこに固執せざるを得なくなります。
他の人の使ったものは、自分には取り入れられないものの象徴として自分に迫ってきます。
周りのすべてが、自分で居られるスペースを侵害するものとして映ってきます。
自分が、安心して自分であることを感じ、確かめながら、少しずつ、外へと向いていくスペースと時間が与えられていないことで
失っていくものが如何に大きいか・・・に気づく必要があります。
その失われたもの、失われたスペースと時間を取り戻すためにも・・・彼らは神経症になる必要があるのです。引きこもって、
自分とだけしっかり対峙する時間・・・彼らが自分を守る唯一残された方法なのです。
今、必要なのは、彼らが彼ら自身でいるのを許す大人の余裕です。
彼ら自身のまま生きていくのを許す愛のまなざしです。
彼ら自身の小さな過ちを・・・そして、ころんで自らの力で起き上がるのを見守る信頼する心です。
彼らは確かに小さいでしょう。
しかし、彼らの心はあなたの心と同じ大きさなのです。
彼らの魂は確かに見ることは出来ません。
しかし彼らの魂は、あなたのものと同じ強さなのです。
信じてください。
彼らの力は、あなたの力と同等の強さを持っているのを・・・。
そして、芽が出て、少しずつ太陽に向かって伸びていくのを見守っていてください。
こっちへ向け、あっちを向けと、伸びようとする方向を変えようとしないで下さい。
彼らは、しっかりと太陽の光に向かって伸びていくでしょう。
それでは今日のメッセージは、この位にしておきましょう。
あなたのご協力に心から愛と感謝を・・・
あなたのお友達にも大いなる愛と感謝を・・・
慈しみの心を持て・・・
あなたに多くの愛を置いていきましょう、ありがとうの言葉とともに・・・。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。愛、愛、愛
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