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あなたから、今回の鉄道事故についてのご質問がありましたので、それについて言及致しましょう。
あなたは、どうして、こんなむごい事故が起こったのだろうと、テレビの画面を見ながら思われました。
本当にその通りです。
多くの方々が不意に、一瞬のうちに命を落とされました。
その原因は何なのでしょう。
それは、もう既にある程度、分析がなされているように、地上的には、スピードの出しすぎであるとか、あるいはダイヤの
過密と運転手の心理との関係などが言われております。
誠にその通りでしょう。
地上的に、分析的に、そして経験に裏打ちされた心理の動き等、あるいは、組織的に人間が集まって何かを為す時に出てくる
“ほつれ”や、縫い合わせの“ほころび”などが、あちこちに見られるのは、ある程度避けられないところではあったでしょう。
しかし、人は、不意に生じる天災や事故によって、今まで思っても見なかった事に遭遇した故にこそ、体験することがあるのも真実です。
毎日、型どおりの生活や、計画や見通しの出来ることを毎日積み重ねていると、人は幸せや、おだやかさや、日常性の中で、
自分の生きていることに少しずつ鈍感になっていくのも、これまた真実なのです。
人が生まれて、育ち、生きて、死んでいく・・・このプロセスの中で何を行い、何を感じ、何を学ぶのか・・・が、人生に於いて価値ある
ものを決めていくなら、誰でも、出来るだけ毎日、学びの多いもの、目覚めを助けてくれるようなもの、気づきの多いものなどを選択して、
体験しようとする人がでてくるのも不思議ではありません。
私達は、しかし、常にそういう覚醒した状態で、毎日を過ごしているわけではありません。
日常性に埋没しょうと、穏やかに何もせずに時間が過ぎてしまおうと、安定した、何も起きない静かな生活を送る幸せというものも
確かにあるのです。
そんな時、何故、あんなに突発的な事故に会うということが起こるのか・・・を、お尋ねなのでしょう。
死ぬ時期が予め決まっているなら、何故、あんな風な別れ方をするようになっているのか・・・に、疑問を持たれるのでしょう。
あなたは、常にこの地上に足を下ろし、頭を上にして、頭脳という肉体的な機械を通して、考えたり、理解したり、物事を判断したり
して生活しています。その中で、この地上で生じることを、その考えたり、判断したりという方法で、理解しょうとしています。
それは、まるで、犬が月に向かって吠えるようなものだと言わざるを得ないのです。
決して、本当の意味は解らないのです。
そういう風にして、あなたは、一種のゲームの中に組み込まれているとも言えるのです。
しかし、ある程度、覚醒してくると、犬が月を見て吠える状態から、月に向かって手を伸ばしたり、望遠鏡で覗いたり、あるいはロケットを
飛ばしたりするようになるように、本来の人間の姿、つまり、魂についても近づくことが可能になってきます。
そうすると、一見、美しく、黄金に光っているばかりの月の上に、実は岩のようにごつごつしたものがあったり、山や谷のようなものがある
のが解ってきます。
人生もそうです。
一見、時間と共に毎日成長し、年老いる間に色々起こり、去っていく・・・そして一度の人生なら、できるだけ、幸せで楽しい人生であって
欲しい、無事に何事もなく、毎日を過ごしたいと、考えるのも無理からぬことです。
しかし、人間は元来、地上にあるものではないのです。
元々、人間の本質、魂は地上に住むものでなく、天にあって地球という学び舎に降りて来て、様々な体験を繰り返し、成長している存在
なのだ・・・ということを、これまでにもお話してまいりました。
その中で、事故は、一つの大きな想定されたものだったのです。
死去された方にとっては、地上を去る方法、手段、形としての事故であり、その去り方を選択するには、それなりの理由があってそうなった
のです。
事故によって傷つき、手足ばかりでなく心までもが不自由な体験をされた人達にとっても、その体験は、お一人お一人が、ご自分から選択
して体験されていることであるのは確かです。
これは、あなたご自身はともあれ、他の多くの方々にとっては、納得のいかないことかも知れません。
誰があんなにむごい死に方を選ぶだろうと、反論されたいところでしょう。
しかしながら、ここで、死はどういう形であれ、一つのドアを通り抜けるだけのことであるのを、思い出していただけるのなら、これが例え、
どんなに肉体的にはむごい形であれ、それは一瞬のことであり、肉体という着物の脱ぎ方、肉体という乗り物の降り方が多少異なるだけで、
残された人はどう感じようと、本人達にとっては、それ程苦しいことでも、むごいことでもないことを知っていただきたいと思うところです。
勿論、痛かったことでしょう。
苦しかったことでしょう。
無念に思ったことでしょう。
しかし、それも含めて、彼らにとって大変貴重な体験であったことには、違いありません。
家族のことを思って、泣いたことでしょう。
先にあると思っていた色々なことを、手放さざるを得ないことを、残念に思ったことではありましょう。
しかし、それは、こちら側の部屋に留まっている時に感じられることに過ぎないのです。
一端、ドアを通り、あちらの部屋に入った途端、そのお気持ちが大きく変化するのは、間違いありません。
美しい光の中で、大きく癒され、新しくて懐かしい世界が広がって、ご自分がそこに属し、そこが本当の故郷であることを知るのです。
それでは、何故、事故という、衝撃的な形を選ばなければならなかったのか・・・を申しましょう。
一言で、それはそうする必要があったからだと、申し上げましょう。
あの事故に会われたお一人お一人は、素晴らしいドラマの主人公であり、長い物語の一編一編は、連続しているのです。
続きがあって、前編の後に今回があり、今回の後に次回の物語が続くのです。
すべてが、原因と結果、必要性、必然性の中で、生じていることなのです。
そのお一人お一人の必然性を、ご本人も周りの人達も、誰一人としてご存知ないだけです。
表層意識でご存知になると、不都合が生じるが故に、知らない状態であったのです。
覚醒して、未来を知り、それに対処可能な人のみが、まれに自分の未来を見ることがありますが、ほとんどの人にとって、それは
ご自分から隠された計画、見ることのない未来として留まっているのです。
そのお一人お一人が、どういうドラマの主人公であったかは、ご本人がよくご存知ですし、いずれ、周囲の方々にとっても明かされる
時がやってくるのでしょう。
そのドラマは、この地上では明かされないが故に・・・少なくとも、普通の意識下では・・・悲しんだり、怒ったり、絶望的になったり
するのですが、これとて、それだからこそ、得られる感情であり、肉体的感覚であり、物事の流れではあるのです。
そして、世間に何かを影響させていくプロセスも、並行して起こっています。
お一人お一人のドラマと共に、その集積のような形で、皆のエネルギーが波及して、この地球上の・・特に関係する場所、関係する
人々、組織、区域などにも、それによって何らかの大きな、それがなくては起こりえない、変化を生じさせる力となっていくのです。
家族の悲しみや怒りの集積が、大きくエネルギーとなって広がっていきます。
風が木々の葉を揺らすように、周りの人々の心を揺らして広がっていきます。
そして、揺らされた心が変化して、何かを感じ、考えたり、気づいたりし始めるきっかけを作るのです。
大きなうねり、力となって、動かないものを動かし始めもします。
これが、彼らの死によってもたらされるものの意義の一つです。
彼らの変化によって、周囲にも変化が生じ、それが力となって、何かが変化していく、それが大きく輪のように波及して、変化をさらに
広げていくのです。
お一人お一人のドラマの中の必然性は、大きく広がって、大きな意味での必然性と必要性と重複しているのです。
一つの処で起こることは、大きな所でも意味があるのです。
悲しみは大きな体験です。
歓びも大きな体験です。
これは、この地球上で味合うことも出来る感覚です。
右と左に分かれた同じもの・・・人として生きるが故に、体感可能な二元性でもあります。
ミクロで見ることと、マクロで見ることの意味をもう一度考えてみてください。
そして、悲しみも歓びも精一杯、感じてみてください。
そして、いつか、ああいうことも体験できた、こういうこともあったのだと、懐かしく振り返ることがありましょう。
星々の中で様々なことが行われています。
一つ一つの星が、それぞれの世界を持っています。
その中で、それぞれの形で、それぞれの生命が、様々なことを体験しています。
その中の一つがあなたの住む星、地球であるのです。
お分かりでしょうか。
またいつか、同じようなことをお話する時があるかも知れません。
多くの魂が、同じような体験を必要としています。
それでは、あなたに多くの愛と感謝を・・・
ありがとうの言葉と共に。
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