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それでは始めましょう。 愛の話を書きましょう。
愛とは無尽蔵のものです。
愛はとめどもつきぬ泉です。
愛とはいつまでも、いつの瞬間でも輝いています。愛はめまぐるしく変わりますが、不変です。
めまぐるしいというのは、必要によって変化はしますが、本質的には変わらないということです。
愛は甘くもありますが、辛くもあります。
愛の真の意味は、愛を与える人のみが知り得ます。
愛は欲張りではありません。
愛は与えるのみであるにもかかわらず、愛は多くの愛を引き付けます。
愛はかくありて、かくあるべきという形はありません。
愛はいつでも、どこでも何の理由もなしにやってきます。
愛はもう要らないといえるまでやってきますが、その時は恐らくやって来てもわかりません。
そうなのです。 愛とは上記のすべてを含んでいます。
いつもいつも愛について語るので、もういやと思いかも知れませんが、もっともっと語らせてください。
愛の本質について、というタイトルで今日は語りましょう。
本質と言うのは、究極のその語っているものについてのエッセンスといったようなものを指すと理解していますが、
それで良いとしたら愛の本質とは何か、について語りましょう。
愛は光で、光は愛であると、いつか語りました。
そうです。 本質、究極の形は光でしかありません。
すべての存在を含んだ光です。 高い波動の光で、すべての波動領域を含んだ高い愛の光です。
こう言ってもよくお解りにならないかも知れません。
光が愛としたら、光はあっちにもこっちにもあるではないかとお思いでしょう。
電灯の光、ネオンの光、太陽の光、月のひかり、など。
光が愛としたら、この光というのは一体何の光なのかという問いが浮かんでこられるでしょう。
そうです。 光には、光源には種々な種類があることは、私も承知してます。
光は美しきもの、あまりそうでないもの、明るい光、暗い光など色々な程度もあるでしょう。
どんな光が愛なのか、です。
愛の光は透明です。
本当は見えないかも知れません。 人間の目には見えない光と申し上げましょうか。
光源として認知不可能な光と申し上げましょう。
な〜んだ・・・と、がっかりなさらないでください。
それでも見える方法はなきにしもあらずです。
月の光は見えるでしょう。 月は本当は光を出してはいません。
少なくとも、あなた方が認めるような光を月は出してはおらず、ある種の残影のようなものが今、認められて
いる光と申せます。
本当の光はそういうものではありません。
そのものが光っている、そのもの自体が光を発しているのが、私が今話している光です。
また、光の中には特別な方法で創り出されたものもあるかもしれません。
光を創り出す方法は幾らでもあります。
何千、何万というやり方で、それこそ、種々な波長、波形のものを生じさせることも可能です、
人間の科学の発達は、ある程度、これを可能にしています。
しかし、私の今、話している光は、創り出された光ではありません。
何と何をどういう方法かで工夫すると光が生じる・・・といった風に生じる光ではない、ということです。
人間や他の生物、あるいは他の宇宙の存在によっても創り出される種類の光ではありません。
その光は、元々から在る光とでも言ったら良いでしょうか。
光はいつでもそこに在り、すべてを創り出すものである・・・と言ったら良いでしょうか。
それでも、この表現はあまりにも不完全な表現でしかありません。
言葉が、光の性格を顕わし切れません。
遍在する光・・・とでも言えます。
宇宙のすみずみまで届いている存在そのものの元となる光・・・とでも言えます。
地球にも勿論届いておりますが、あまりにも普遍なので、気が付いておられないものでもあります。
その中に初めから居るために、あまりに当然であるかために、在ることさえ気づかないものです。
そして、在ることに気づいていないために、そのことに疑問も持たないし、そのものの価値をも知ろうともしないし、
そのことに対して感謝もしない、鈍感になって当然のもの、なきものに等しいように取り扱われているともいえます。
その愛を失って初めて、その価値に気づく・・・のですが、それがなくなることもないので、永遠に気づくことがないまま
いってしまうこともあり得ます。
それでも、空気を無くしてみたらどうなるか・・・ということが時折体験できるように、愛を少し止めてみて、その無い
一時的状態を体験することは可能ですし、実際、そういった方法で、多くの人が愛のない状態を体験したがって地球に
来た人も多くおられます。
どういうことかと申しますと、例えば失恋です。
愛というのは、他人からもらうものではなく、自分の中に既に在るものなのですが、恋という男女間に発生する愛の形を
体験することで、愛がなくなった時の苦しさをほんの一部ですが、疑似体験を楽しむことも可能です。
また、親子間の別れ、永遠の別れなどと死についてレッテルを貼っているようですが、そういうものはないのですし、愛は
決して消えることはないのですが、そういう愛の一部の特質を体験することもしておられるでしょう。
また、何かを失うこと、例えば、物質的なものでも、自分が大切にしているものや、長年愛用していたものを失うという体験を
通して、また、愛というもののほんの一つの側面を感じることもできます。
愛とは、そういう失ってこそ本当に体験でくるものなのですが、全部、つまり、大元の光を失うことはあり得ないので、
愛の一部の側面を様々な場所で体験する為に、私たちは宇宙を旅しています。
地球はその一つの場所にすぎません。
地球にある愛の形は、愛の光の側面の限られた一部しか体験できませんが、それでも愛の素晴らしさを知るには充分な
場所でもあります。
他の場所では、また違った側面を体験することが可能です。
そのように、光はすべての体験や、すべての出来事、存在を含んでいるのです。
すべてのものや、起こることは、光の中から生じ、光を体験するためのものであるとも言えます。
それで、すべての体験の目的は愛を知ることになる訳です。
地球上で愛をもって・・・という表現は、地球上の体験可能な範囲での理解になりますが、その他に、もっともっと
考えられない程、想像だに出来ないことが愛の側面には含まれております。
ですから、今。大切なのは、この地球上での愛をしっかり学び、実践し、愛を与え合うことなのです。
美しきことでも、異なることでも、善なることでもあるこの愛は、それ以上のものであるのです。
愛は、知れば知るほどおもしろく、・・・興味をわかせ、また、その価値が大きくなり、求めれば求める程、遠くなって、
小さくなってしまいます。
求めるのではなく、与えれば与えるほど与えられるという風なものなのは、なんと興味深いこどではありませんか。
愛は惜しみなく奪うものではなく、惜しみなく与えるべきものでしょう。
それでこそ、この地に学びにやってくる甲斐があるということになります。
すべての出来事は、愛の形を知るためです。
すべての苦しみ、痛みは愛への道を示す為にあります。
それは、体験してこそ解り得る事です。
ですから、苦しみや痛みを怖れることはありません。
愛を意識して、そちらに進めば、その役目は終わりを告げるからです。
おもしろいでしょう。
神の配慮は完璧です。
それでは、今日はこの辺でおいとまする事に致しましょう。
私も愛を学んでいる一生徒です。
ご一緒に愛について語り、実践致しましょう。
それでは最後に、多くの愛を多くの人々に、私からお送りするのをお許しください。
愛、愛、愛をお送りします。
ありがとうの気持ちと一緒に・・・です。
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