それでは、ご質問の北朝鮮の拉致問題について言及致しましょう。

 

北朝鮮とは何と不条理なことをする国家なのだろうと皆様はきっとお思いでしょう。

拉致された人々、その家族は、どんなにお辛いことだろうと思われるでしょう。

しかし、あの被害にあわれた人達の魂は、かならずしも被害者意識を持っていないとお伝えすると驚かれるでしょうか。

 

あなたにはうすうす気づかれておられるように、彼らには彼らの必要性と目的があって、あの事件は起こっています。

自然、神、天、宇宙に起こることは偶然でなく、必然性とその意味を持って展開しているのは、ご存知の通りで、

もっと小さなお一人お一人に生じる事件も、同じように大切な意味と目的を持って生じています。

 

この点、拉致事件に於いても例外ではありません。

 

それでは、一体どんな意味と目的があるのでしょうか。

あなたは、このご質問を長い間抱えて迷われていました。

この答えが明らかにされて世に知られる時、どんな反響がでるのか、怖れられておられました。

しかし、今あなたはどんな答えだろうと、完璧さをしっかり信じられるようになったことで、すべてを受け入れ、すべてを確信と共に

行えるまでになっています。

従って、私によりどんな答えを得ようと、それは信じ、受け取る準備の基に、今その問いを発しています。

 

さて、どんな答えなのでしょうか。

これは、とても簡単です。いつもの通りです。

愛を知るためです。

「またかぁ〜・・・」ですネ。

 

そうなのです。

すべての体験は愛を知るため・・・つまり、愛を与え、受け取れるためのものです。

 

それでは、もっと詳細に述べましょう。

彼らにはその必要性がある・・・と申しました。

すべては、必要性と必然性の基に生じているのなら、彼らにはどういう必要性と必然性があったのかをお知りになりたいでしょう。

これらは、あなたのお察しの通り、プライベートな側面を持っていますので、出来うる限り、彼らに共通なもの、普遍性の在るものに

限って言及することにしましょう。

 

「自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならない」という言葉は、以前にもあなたにご説明したところです。

すべては学びと気づき、そして、償いという条件も稀に入ってくることがあります。

「償い」というと、何か悪いことをして、それに見合った悪いこと、罪が課せられるような印象を持たれるでしょうが、そういったことでは

決してありません。

償いというのは、課せられるものではなく、自らが自らに課すもので、他者から強いられるものではありません。

その意味でも自らが刈り取るのです。

罰せられるということもないのは、言うまでもありません。

つまり、自らが自らを省みて、学びや気づきの為に行う課題のようなものです。

償いという言葉を使ったのは、それを決める時の本人の欲求が、他者に対しての関係性が強く出ているからです。

自らの中に芽生えるべきものに中心を置いた場合、必ずしも償いという意識は出てきませんが、ある行動によって他者が傷つき、

痛み、苦しみを感じた時、たとえそれらが必要であったとしても、それらを与えた本人の意識は、反省と回顧の中で、自らを

それに見合った状況に置くことを望みます。

その状況に身を置くことでのみ、達成可能と思うことがあるからです。

 

さて、彼らの場合、どういうことなのか、についてです。

彼らの苦しみ・・・あるいは体験していることは、彼らの望んだことである・・・ということに尽きます。

彼らの意識は少なくとも表面的な意識では、一笑に付されるか、憤慨されるようなものですが、本質的な部分では、しっかりと

理解されています。

自らが選択したところですから、知らない訳がないのです。

 

つまり、因果応報という言葉のごとく、すべては因があり、果があり、それはそれ相応にふさわしいものが起こっているということです。

この「報い(むくい)」という言葉は、多少否定に傾いて響きますが、これらには本来、良し悪しという判断は伴うべきではありません。

すべてが、価値判断は相対的なものであり、絶対的なものは、愛を中心としたものから判断されるべきものだからです。

すべての体験されることは、このルールの元で生じ、許されるのを知ってください。

 

拉致という非人道的な行いは、地球上ではかなり頻繁に行われてきました。

それぞれの時代に、何回となく様々な文化、民族、理由、目的によって行われてきました。

ニュースが、皆の知るところとなり、価値判断にも共通項が多くなっている昨今では、大きく取り上げられ、皆の注目を

集めるところですが、かつては多くの人達が日常的に連れ去られ、嘆き悲しみ、そして忘れ去られることがいかに多かったことでしょう。

これらは、戦争の中、争いの中、仕打ち、応報、など様々な形態、目的で行われ、多くの人がどれ程の涙を流したことでしょう。

その中には、正当化され、美化されて語り継がれたものも少なくない程、歴史の中では必要とされた行為の一つだったこともあります。

そういう歴史の中で、非人道的なことが正当化され、当たり前のこととして、その任を負った人達・・・が居たのです。

その任を負い、実際に拉致を行い、手柄として、相応の地位、金品、土地等を手にし、喝采を浴びることもあったのです。

美化されて、誇りを持って、その任を遂行した文化もあったのです。

 

その向い側、つまり対の側、拉致される側の思惑は無視され、物語の中には示されておりませんでした。

例えば、「敵の大将を拉致し、彼らは大勝に至ったのです」のように結論づけられます。

その裏にも多くの語られないものがある筈ですし、その文明の隠れた部分が闇に葬られています。

力のない者、弱き大衆が泣いている部分には目が注がれていませんでした。

 

そういった部分を、今回の事件は明るみに出し、多くの人の目に止まらせ、無理やりにでも考えさせる機会を作っています。

当事者の悲しみ、ご苦労と苦しみは白日の元に皆に伝えられ、多くの人が彼らの心中に思いを馳せるチャンスを与えられています。

愛する者を奪われた人々の悲嘆を皆が感じるチャンスを持っています。

それらは、私達すべての人に、こういった行動のもたらす結果を見せつけているとも言えます。

私達のどこかに、それを見ることで、心が痛み、その苦しみを共有する素地があります。

何故なら、心の内に秘めた共鳴する記憶――それらは集合意識として、悲しみや辛さといった否定的なメモリーとして

残ってきたものであり、長らく癒されずに持ち越して来られたものだからです。

それらを、今、浮き上がらせ、癒すべく拉致事件が起こり、その解決に時間を費やしているだとお答えすると、皆様は

どう感じられるでしょうか。

歴史を通して引き続いて持ち越されたもの・・・民族や人々に共通して心に刻まれた記憶の多くは、癒しを必要としています。

悲しみを持ち越している事象が何と多いことでしょう。

その一つが、拉致という多くの文化、時代に共通な記憶であり、癒され、正されるべきものなのです。

 

この事件を通して、人々は知るはずです。

拉致という人の自由意志に反し、愛という大原則を無視した行動のもたらす意味を深く知るはずです。

そして、皆が、すべての人がその思いを分かち合い、認識し、反省し、新しい価値観―――

 

つまり、愛という宇宙の原則に則したものに沿う大切さに、思いを致すことで、この事件は解決に向かうのです。

これは、一家族や、その当事者に限られたものではないからです。

彼らが、私達のすべてを代表し、見せてくれているのです。

ですから、私達のすべきことは、彼らに暖かい心を送り、感謝と、応援のエネルギーを送ることです。

それにより、彼らの使命、行っていることの目的は遂行し、終末を見るのです。

 

私達すべての人の中に在る罪の意識と、被害者意識の総体がそこにあります。

その意味を良く認識し、お一人お一人の心が変化する時、必ずや解決の道が示されるでしょう。

 

それでは、今日のご質問への答えはこのくらいにして、ペンを置く事に致しましょう。

いつものように、あなたとあなたのお仲間にどっさり愛を置いてまいりましょう。

使っても、使っても使い切れない程に・・・・・。

是非お使いくださるように・・・。

私と私の仲間が、あなたと共にあり、あなたを心より応援していることを知ってください。

あなたの足となり、手となり、頭脳となり、働きたいと願って、あなたのお声がけを待っています。

それではまた、次回まで。