パート3

 

あなたには、もっとお知らせしたいことがあります。
 それは人間の自然に対する傲慢さについてです。

傲慢という言葉はあまり使いたくありませんが、他に良い表現が見つかりません。

人の力の及ぶ範囲を越えて望むことの危うさを、知って戴きたいものです。

人智には限りが今のところあります。自然の前に、いかに力が限りあるものかを知らされ

た如く、人の力の限りあることは、どんな分野に対しても言えることです。

 

例えば、今回の津波や地震に対してもそうでしょう。

地震の起こる時期、起こり方、その対応の仕方等々、飽くまでも人の目から見たものは限

定的だと言えます。

自然界の成り立ち、仕組みは、飽くまでも神の領域であり、征服することは不可能です。

不可能な物を一つ一つ仕組みを明かそうとするのが進化かもしれませんが、その仕組みの

利用にも一定のルールが必要です。

 

 つまり、自然の力を利用したいなら、ご自分の知っている範囲の内にとどめるべきなの

ですが、少し知ると、それが全部と誤解し易いのです。

良いところ、人間にとって都合のよいところのみ切り取ろうとしますが、それは無理と云

うべきものです。

二元的に、そのようには出来ておりません。良きものの裏に悪しきものも存在し得るのを

忘れておられます。

利用することの裏には、歓迎できないものも必ず出てくるのを知りましょう。

 

では「一体どうすればよいのでしょう」という問いには、次のようにお答えしましょう。
今回のことの反省をしっかり行い、進むべき道を再考することです。

あまりに、自然に対する力の行使のやり方が強引でした。これからは自然のバランスや、

自然の成り立ちにさおをささないようなやり方で、ご自分たちの利益になることを見つけ

るべきでしょう。

具体的に申し上げましょう。

今回の事故は起こるべくして起こりました。

やり方が初めから適切でありませんでした。

もっとやり方を変え、傲慢にならず、自然界のルールに従ってやりましょう。

「自然界のルールって何?」ですか それは神のルールです。

人間に知りえる範囲は限られており、従って利用すべきも限定的です。そこをわきまえる

ことです。

 

「その範囲が分からないから、起こったのだから、どうして知りえるでしょう?」という

問いには、こうお答えしましょう。

例えば、幼稚園児がいたとします。

その子の行動を、あなたは全部予想できるでしょうか。その子にはその子の中にある無限

の可能性があり、その子の感情、行い、動きはある程度予想できても、外からの刺激によ

って変化します。その外からの刺激が内なるものと合流して、どんな反応になるか、言葉

になるかは、なかなか予想付きません。

ある程度は可能ですが、それでも万が一に予想していなかった行動や、言葉が出ることが

あります。そのように自然の中にも、人智を超えた反応が生じ得るのを知ることが大切で

す。

 

「解ったようで、いつも解らない答えですね」でしょうか。

その通りでしょう。

いつも具体的でない・・・とお考えでしょう。仕方のないことです。

具体的ということ自体、現象の一つの掴み方でしかすぎないのですから。

現象の裏に大きな知られざるものが存在するのを知り得たら、そのお答えは簡単ですが、

又、ここに来ますが、人間に知力の限界は何とも仕様がありません。

 

「では今後、原発をしっかり無害に近い形に終息させるには、どうしたら良いか」ですが、

これは、あり得ませんと明言いたしましょう。

無害に近い形にさせることはない、と申し上げざるを得ません。血を流すのは止む得ませ

ん。血は、治癒の為に必要です。

つまり、それなりの代償は払わざるを得ませんから、まず、そのことを知るべきです。

人のやったことは人に戻ってくる・・・ということでしょう。

誰の責任でもありません。それを利用しようとした人の心の集積が招いた結果ですから、

あの人が悪い、この会社の責任だ・・・ではありません。

全ての人の欲望の責任です。

人の在るべき姿を越えただけにすぎません。

人の知り得る範囲、持てる力の中でのみ、道具を使うべきだったのですから、その結果を

引き受けざるを得ません。

良い学びとなるでしょう。

 

さて、「そんなに神は無慈悲なのか」という問いにお答えしましょう。

まず、申し上げましょう。

無慈悲という言葉は適切ではない、ということです。

慈悲は、心の現れです。

自然に心はありません。自然は愛のかたまりです。神の愛は自然のどこ、そこにも現れて

おり、愛のかたまりと言って良いものです。

その中で人は遊んでいるようなものです。

その遊びの中で、ご自分が転んで、足をすりむいただけです。ご自分の足で立ち上がり、

泥を叩いて落とし、また、遊ばれるのみです。

神は遊び場をしっかり用意してあります。

その中で、そういう風に遊ばれようと、それはあなたの選択です。

痛いことをすれば痛い・・・それを避けずして、何が得られましょうか。

それを取り上げることこそ、あなたのおっしゃる無慈悲となり得るでしょう。

 

さて、それでは最後にこちらから申し上げましょう。

あなた方を私は深く愛しています。

あなた方の悲しむ顔を見たくないのは、愛する者の常です。私も悲しみ、心を痛めている

のを知っていただきたいものです。あなたの行動、あなたの言葉、一つ一つを私は知って

います。

それでこそ、私は私たり得るのです。

 

従って、あなたは何も怖れることもありません。あなたは私の手の中にあります。

すべては遊び、すべてはゲーム、すべては楽しむべきものです。

私の手の中で悩み、苦しみ、そして遊んで下さい。

私はあなたをいつも見守り、私の手はあなたの肩にそっと置かれているのを、知って下さ

い。

 

大丈夫です。怖れることは何一つありません。

すべては「知る」ことへのプロセスでしかありません。

知ることも愛の一つの現れでしかありません。

知ることで、もう一歩遠くへと歩めるのです。

これで一つ賢くなりました。

祝福を差し上げましょう。

私の愛する子ども達。

私の手の中で安心して下さい。

それでは今日はこれまでとします。

愛しています。ありがとう

これまでとします。